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250px-Turquoise_pebble_700pix.jpg12月の誕生石 トルコ石 ターコイズ
トルコ石
(—いし、turquoise、ターコイズ)は青から緑の色を持つ不透明な鉱物である。化学的には水酸化銅アルミニウム燐酸塩であり、化学式では CuAl6(PO4)4(OH)8·5H2O と表される。良質のものは貴重であり、宝石とみなされる。12月の誕生石でもある。

その色合いのために、数千年の昔から装飾品とされてきた。近年では他の多くの不透明の宝石と同様に、表面処理されたものや模造品・合成品が市場に出回っていて問題となっている。専門家でもその鑑定は難しい。

英語では turquoise (ターコイズ)という。この語の語源は古くはっきりしないが、フランス語の pierre turquoise (トルコの石)に由来するといわれている。これは幾分かの誤解を含んでおり、トルコでトルコ石が産出されたわけではなく、アトラス山脈周辺の砂漠で産出されたものが貿易でトルコを経由してヨーロッパへ広がったのちになじみの深い宝石になり、「トルコ石」と呼ばれるようになったとされている。
産出

トルコ石は人類が最初に掘り出した宝石のひとつであり、歴史的な産出場所は既に多くが枯渇しているが、今日でも稼動しているものもある。これらは、鉱脈の範囲が狭く、また人里離れているために、いずれも小規模で、季節限定の操業である。ほとんどが手作業で、機械化はわずかか、またはまったくされていない。しかし、特に米国では、トルコ石はしばしば大規模な銅の採掘事業の副産物として回収されている。

イラン

少なくとも2000年以上にわたり、ペルシャとして知られたこの地域は、トルコ石のもっとも主要な産地だった。というのも、高品位の素材が最も一貫して採取されていたためである。この「完璧な色合い」の鉱脈は、イランのコラサン地方の主要都市マシュハドから25キロメートルにある標高2012メートルのアリ・メリサイ山に限られる。これらの採掘所はシナイ半島のものと合わせて、最も古くから知られている。

イランのトルコ石はしばしば長石と置き換わる形で見つかる。一般に白い斑点が付いているが、その色合いと硬さは他の産地のものより優れていると考えられている。イランのトルコ石は何世紀にも渡って採掘され、取引されてきており、おそらくヨーロッパに最初に渡ったのはイランのものであったろう。

シナイ半島

少なくとも第1王朝(紀元前3000年頃)または恐らくそれ以前から、エジプトではトルコ石がシナイ半島でエジプト人によって採掘され、用いられていた。現地のMonitu人はシナイ半島を「トルコ石の国」と呼んでいた。この地域にはおよそ650平方キロメートルに渡る6か所の鉱山があり、それらすべては半島の南海岸にある。これらの中で歴史上もっとも重要なのは、セラビト・エル・カジムと、ワジ・マガレであり、知られた鉱山の中で最古のものだと言われている。前者はハトホルのための古代の神殿から4キロメートルの場所にある。

このトルコ石は、玄武岩に覆われているか、またはもともと覆われていた砂岩の中で見つかる。銅と鉄の採掘が現在でもこの地域で行われている。大規模なトルコ石の採掘は今日では採算が合わないが、鉱脈はベドウィンが自家製の火薬を使って散発的に採石している。雨が多い冬の季節には、採掘者は鉄砲水の危険に曝される。乾季ですら、無計画に採掘された砂岩の壁が崩壊して死ぬこともあるらしい。 シナイ半島のトルコ石の色合いは、一般的にイランのものよりも緑がかっているが、安定でかなり耐久性があると考えられている。しばしばエジプトのトルコ石と呼ばれているが、シナイ半島のものは一般に最も透明で、拡大鏡で観察すると表面構造には他の産地のものには見られない暗青色の円盤が散りばめられているのが見える。

イスラエルのエイラトの近くでは、トルコ石、クジャク石、珪クジャク石の魅力的な合生が見つかっている。この岩はエイラト石と呼ばれ、しばしばイスラエルの国の石とも言われる。エイラト石は現地の職人によって加工され、観光客に売られている。

米国

米国の南西部は、顕著なトルコ石の産地である。アリゾナ、カリフォルニア(サンベルナルディノ、インペリアル及びインヨー郡)、コロラド(コネホス、エルパソ、レイク及びサガチェ郡)、ニューメキシコ(エディー、グラント、オテロ及びサンタフェの各郡)、ならびにネバダが特に豊富である(またはかつて豊かだった)。ニューメキシコ州セリロスには最も古い鉱山があるとされる。1920年代以前にはニューメキシコが国内最大の産地だったが、現在では多かれ少なかれ枯渇している。今日では、カリフォルニアのアパッチ渓谷にある一か所だけが商業的な規模で操業されている。

ここでのトルコ石は、石理か割れ目を埋める形、または小さな塊状で産出する。ほとんどが小さいサイズである。色合いと耐久性においてはイランのものと肩を並べるほど、かなり上質のものがたまに見つかることがあるが、大部分のアメリカ産トルコ石は低いグレードのもの(いわゆるチョーク状トルコ石)である。すなわち、高い鉄の含有率によって緑や黄色が強く、また一般的に脆く、人工処理しなければ宝飾品で用いることができない。 アリゾナは、価値の面では現在最も主要な産地である。鮮やかなビズビーブルーがそこの天然の品質のよい例である。アリゾナ産のものは、多くが銅採鉱の副産物として採取されている。ネバダはもうひとつの国内の大産地であり、歴史上、推定で75から100か所の鉱山が開かれた。ネバダ産のものはしばしば、いわゆる「蜘蛛の巣状の基質」を形成する魅力的な茶色や黒の褐鉄鉱の石理で特徴付けられる。

1912年にバージニア州キャンプベル郡のリンチステーションで、はっきりとした単結晶のトルコ石の鉱脈が発見された。母岩の上に晶洞を形成していたこの結晶は、非常に小さいものであって1mmは大きい方だった。1980年代まではバージニアは明瞭な結晶が取れる唯一の場所と考えられていたが、現在、これ以外に少なくとも27か所になっている。こういった試料は、コレクターに高い価値を付けられている。

利益を回収し需要に応えるための試みとして、ほとんどのアメリカ産トルコ石はある程度人工処理または強化されている。これらの人工処理には、ワックスを塗る無害な方法から、染色や浸透法のようなもっと問題のある方法まで、さまざまである(下記の人工処理の項を参照)。

その他の産地

中国は3000年以上に渡り、少量ながらトルコ石の産地だった。小さな塊状をなす宝石級の品質のものが、Yunxian、Zhushan、及び湖北省のケイ化した大理石の破片から見つかっている。加えて、マルコ・ポーロは、現在の四川省からトルコ石が見つかったと報告している。

ほとんどの中国産トルコ石は輸出されるが、翡翠に似た加工法で加工された彫刻もいくつか存在する。 チベットでは緑色のトルコ石が珍重されるが、宝石級の品質のトルコ石が、東部のDerge、及び西部のNagari-Khorsumの山から産すると伝えられている。しかし、裏づけがないことからこれらの存在は疑われている。

このほかの顕著な産地は以下の通り:アフガニスタン、オーストラリア(ビクトリアとクイーンズランド)、チリ北部(チュキカマタ)、コンウォール、サクソニー、シレジア、及びトルキスタン。

歴史

トルコ石のパステル色の色合いは古代の多くの大文明に愛された。トルコ石は、古代エジプトアステカ(及び恐らく他のコロンブス以前の中米)、ペルシアメソポタミアインダス渓谷 、そして少なくとも王朝以来の古代中国の統治者を飾った。[1]

他のシルクロードの産品と共にヨーロッパへ(トルコを経由して)恐らく最初に導入された、最も古い宝石のうちの一つであるにもかかわらず、トルコ石は西洋では14世紀まで宝飾品として重要にならなかった。それは、カトリック教会の影響力が低下し、教会以外での宝飾品にトルコ石を使うことを認めるのを待たねばならなかった。 インドにおいては、明らかにムガール帝国時代までは知られておらず、日本においては18世紀まで知られていなかった。 これらの文明の多くは皆、トルコ石がある種のお守りのような特質を有すると信じていた。つまり、着用者の健康状態によって色が変化し、不運な力から着用者を守ると考えられていた。

アステカ人は仮面(一部は本物の人間の頭蓋骨をベースに用いた)、ナイフおよび楯のような、人を刺激するための(そしておそらく儀礼用の)モザイク装飾へ、金、水晶、クジャク石黒玉硬玉珊瑚および貝殻と共に、トルコ石を象眼した。装飾のベース材料へトルコ石を接合するためには、天然樹脂、れき青、及びろうを用いた。ベース材料は通常は木だったが、骨と貝殻も用いられた。

アステカ人と同様に、プエブロ、ナバホおよびアパッチの種族は、トルコ石をお守りとして重用した。アパッチは、トルコ石を身に付けると射撃の正確さが上がると信じた。これらの民族の間では、トルコ石は彫刻品の中で、モザイク象眼として使用された。また、ドーナツ型のビーズや自由形のペンダントが作られた。

グランチャコの昔のプエブロ族(アナサジ族)および周囲の地域は、トルコ石製品の生産および取引で非常に繁栄したと考えられている。 今日、ナバホおよび他の南西アメリカインディアンの種族によって生産される特産の銀の宝飾品は、むしろ現代になってから開発されたものである(ヨーロッパの影響の結果およそ1880年頃以降)。

ペルシアでは、トルコ石が一千年の間事実上の国家の宝石だった。オブジェクト(ターバンから馬具まで)、モスク、およびイスファハンのメドレシ・シャー・フセイン・モスクのような他の重要な建物の内外を徹底的に飾るために、広範囲に使用された。ペルシア式のトルコ石およびその使用は、ムガール帝国の設立の後、インドへ伝わった。高いカラットの金の宝飾品(ルビーやダイヤモンドと共に)およびタージ・マハルのような建物でその影響が見られる。ペルシアのトルコ石は、しばしばアラビア文字で祈祷文が彫られ、その後、金で象眼された。

輸入トルコ石のカボションは、珊瑚と共に、チベットおよびモンゴル(ここでは緑の色調がより好まれると言われている)の銀や金の宝飾品の中で広範囲に使用された(現在でもそうである)。 今日作られるものの大部分は、通常はトルコ石を不規則なカボション型に荒く磨いた後銀にセットするだけのものであるが、こういった品は西洋の市場向けの安い輸出向けのものなので、恐らく本来のスタイルを正確に代表しているものではない。

エジプトでのトルコ石の使用は、第1王朝か恐らくそれ以前まで遡る。しかしながら、恐らく、宝石を組んだ最も有名な作品は、ツタンカーメンの墓から発見された、トルコ石で贅沢に象眼されたファラオ像の埋葬仮面であろう。 さらに、トルコ石は指輪、及び胸飾り(pectorals)と呼ばれる大きな曲線を描くネックレスを飾った。その宝石は金の中にセットされ、ビーズに加工されたり、象眼として使用されたり、しばしば赤メノウラピスラズリを伴って、コガネムシ(スカラベ)のモチーフの形に刻まれた。 コガネムシの彫刻の場合は有色のガラスが伴うこともあった。

トルコ石は女神ハトホルに関連しているとされ、古代エジプト人から非常に好かれたので、恐らく模造品が作られた最初の宝石になった(ファイアンス焼きとして知られている人工の釉薬をかけた陶器の製品によって作成されたよく似た類似品だが、これに類似した青い陶器が、イギリス諸島の青銅器時代の埋葬遺跡から発見されている)。

19世紀中頃、そして20世紀始めに、フランス人によるツタンカーメンの墓を含むエジプトの遺跡の考古学的調査は、西洋世界の大衆の関心を大いに集め、そのために、当時の宝石、建築、および芸術に影響を与えた。トルコ石は、1810年頃以来そのパステル色の色合いのために既に愛されていたが、このときエジプト復興芸術の主要をなした。 同時代の西洋では、トルコ石は、しばしばアメリカインディアンのスタイルの、銀の指輪や腕輪にカボションカットで用いられるか、もしくは磨かれるか荒く削られネックレス中の大玉のビーズとして用いられることが最も多かった。 小さめの素材は、ズニ族によって作られたもののような、物神の形に刻まれることもあった。 強い空色のものが高い価値を持つ一方、緑と黄色のまだらの素材は職人に人気がある。 また、西洋の文化ではトルコ石は12月の誕生石である。

トルコ石はユダヤ教とキリスト教に共通する聖典の中で重要性を持っているかもしれない。出エジプト記(28:15-30)では、「裁きの胸甲」の構造が、アーロンの僧服の一部として記されている。エフォド(法衣)に付けられた胸甲は金にセットされ四列に並べられた12の宝玉で飾られた。それぞれの宝玉にイスラエルの12の種族のうちの1つの名前が彫られた。第3の列の中の4個の石のうち、1番目および第2のは、様々な学者によってトルコ石と翻訳された。しかしながら、他の学者はそれぞれヒヤシンス石(ジルコン)と瑪瑙と翻訳して、見解が一致していない[2]。また各石がどの種族を意味しているかに関しても見解が一致していない。

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